忘れないで

厭世的なぶろぐ

Nachtmare

 頽れ、寂れ、廃れていく。眼前に据えられたすべてが世界だ。空気は澱み、海は腐り、大地は割れ、空は崩落している。ここには何もない、人も、自然も、科学も、何も無い。あるのは退廃だけだ。

 

 僕は公園のジャングルジムの上で独り、時間を潰していた。時刻は午後3時58分。そろそろここから出て、自宅のマンションへと向かわなければない。そう思い、足軽にジャングルジムから飛び降りた時、巨大な黒い靄のようなものが僕の足元から立ち所に伸び上がって来た。もちろん影のことだ。けれど、これは何の影だ?僕のじゃない。それは大きさからはっきりと分かる。何かわからないが、その何かが私に急速に迫っているかのように錯覚する。たちまちに影は、公園の辺りを隅から隅まで覆い尽くした。僕は怖かった。怖くて振り向かなかった。だから、思い切りに走った。駆け走った。早く家に帰るために、この霞がかってはいるが、にも関わらず明瞭とした不安から逃れるために。気づけばもう辺は茫漠な闇に侵食されていた。1秒でも早くここから脱出しようと、道路に面した出口へ駆けた。その時だった。未だかつて聴いたことがないような、例えるなら鯨?そう、鯨の鳴き声を無理やりシンセサイザーで弄ったような、故に一切の有機性、リズムを持たない、強烈で奇怪な爆音が辺りの闇と同調して僕の鼓膜を揺らした。頭を酷く掻きむしった。あまりの大きさに、それは耳を伝って激しく振動し、脳内で直にこだましたような気がした。耳を塞ぐ暇もなく膝から崩れ落ち、細かい砂利が散った地面に身を投げ出した。轟音が身体中に、皮膚の下にまで刻まれる。指一本も動かせない。視界の端から、あたりに広がる闇ではない黒が内側に向かって急速に迫ってくる。意識を失うその一刻に、僕の目は捕らえた。目の前にある、長針が4時の方を指した背の高い古時計を。

 

 カンカンカンカンカンカンカンカンカンカン

カンカン

 いつになったら鳴り止むのだろうか。脳内に不愉快なサイレンが不断に轟いて行く。

 

 カンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカン

 気づけば踏切の前にいた。黄色と黒が螺旋状に配色されたながい腕木が降りてから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 

 カンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカン

 幾度、僕の前に電車が通り過ぎたのだろうか。 

 

 カンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカン

 否応なく猛烈な勢いで吹き抜ける冷たい風が何度も身体を殺した。

 

 カンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカン

 もういいだろうか。

 

 カンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカン

 およそ人とは認識できない、猛禽類を彷彿とさせる奇矯なノイズが迸った。その常軌を逸した音が発せられた場所を中心にして意識が集合した。人だ。周りにこんなにもたくさんの人が、、、

 毒々しいシャウトにぐりぐりした無数の目玉が一斉に集まった。けれど、彼らの姿は真っ黒な姿でしか映らない。太陽はもうすぐ落ちる頃合い。夕暮れ時で橙色の光が辺りを包んでいた。ふとその時、あることに気づいた。食材がいっぱいに入った手提げ袋が踏切の中に放り投げられていた。あれは、、、僕のだ。どうして、、、取り戻そうと歩を進めようとした時にまたあることに気づいた。僕は両手をだらりと下げ、けれども指にめいいっぱいの力を込めて、掌を宙に向けた。僕は、まるで狼の遠吠えのように夕焼け空に何かを叫んでいたのだ。

 

 

 

 

親和というディスコード

 "厳しいけど優しい"とか、"嫌いだけど好き"みたいな、互いが正反対の性質を孕んでいる二つの概念が同時に成立しているような文言。とても嫌いだ。曖昧で、捉えどころのない、読み手にただモヤモヤ感だけを残す表現でしかない。けれど、醜さの美なんていう言葉にはどうも腑に落ち、傾倒し、執着してしまう。ホラー映画やホラー小説なんかを怖い怖いと言いつつも見入ってしまうのは、この原理からくるものかもしれない。両極の性質を含んでいるものに良くも悪くも惹きつけられるのは、どうしてだろうか。その答えはもしかしたら、私達にとって非常に身近な所に存在するのではないのか。

 

 境遇が似ていて、価値観が似ていて、趣味嗜好も似ている。人は、互いの共通項の数が多ければ多いほど同調して行く。ただお互いが"似ている"というだけで、関係の基盤を構築するのだ。

もちろん、他者との関わり合いにおいて、良好な関係を築くのに必要な要素として、両者の共通点は代表的な要素と言える。平たく言えば、仲良くするための都合の良い"とっかかり"のようなものという感じだろう。

 しかし、これは不和を前提にして初めて成立する関係なんだ。類似性が高いという理由だけで形成された土台は、友好関係を素早く築くことはできる。けれど、それはトランプカードで作った城のように、ひどく脆く、危うい。手が触れるだけで、或いはほんの些細なことで崩れてしまう。それは硝子なんだ。硝子はほんの少し、罅が入るだけでダメになってしまう。少しの罅は、時間を経るうちに、幾何学的に亀裂が進行する。やがてそれは根に到達し、煌びやかではあるが、目に見えないほど小さい粒子があたりに散布し、修復不可能になる。だから、この関係づくりの手法は"強者の処世術"と言っても過言ではない。袂を分てばそれまでだという風に、割り切れる頑健な精神を持っている人間にしか到底行えないのだ。普通、親しくなったからには、できるだけ長くその結びを保っていたいと思うのが自然だ。起こるべくして起こる崩壊を甘受できるには、死を受け入れるのと同じぐらいに達観していなければならない。

幸福である時、須く人は幸福であるとされる。しかし、幸福は悲哀に満ちた瞬間であるのもまた事実だ。幸福を感じる度に、私は恐ろしくなる。果てのない悲哀が眼前にあるからだ。いつ、どこで罅が入るのかに怯えながら幸せを享受することは、もはや幸せを体感しているとは言えないだろう。朝、目が覚めた時、あと何度同じ光景を見ることができるのだろう。夜、瞼を閉じる時、あと何度同じ想いを巡らせることができるのだろう。変わらない日常が不条理にも破壊されることを私は知っている。

 幸せから目を背け、平和を恐怖し、日常に執着する人間を人は臆病者といい、憐れむ。

 

 

ここまできて書いてきて、自分の文章を読み返しているのだが、なぜこれほど稚拙で抽象的な言説が多いのだろうか。つくづく自分の文才の無さに絶望する。戦後、新戯作派は閉口することしかできない状況だったのに、瓦礫の山から可能性求めて言葉を手繰り寄せたとされている。そんな彼らの姿勢に、言葉に、私のような無学無思想な人間が傲慢にも尊いものを感じてしまう反面、やはり羞恥の念が身体中を駆け巡っている。それは遅効性の毒のように徐々に体を蝕み、破滅の一途を辿らせる。瞬間的な恐怖よりも、じわじわと迫り来る恐怖の方が精神的にまいるというのは今ではよく理解できる。

 

 

 

 

 

 

おぞましくも普遍する濁流の中で

"2021年3月、北海道旭川市のとある公園にて、女子中学生の遺体が凍った状態で発見された。現場の状況から事件性はないとされる。"

 

そんな記事を読み、僕は無機的に携帯の画面を下へスクロールした。そして、そこにはおよそつぎのようなことが書かれてあった。

 

"当該女子中学生は学校内で複数人からの凄惨ないじめを受けていたらしく、ここに今回の事件との原因を見ることができるかもしれない。"

 

 

筋肉が硬った。机に半身を出して、さらに画面をスクロールした。そこにはこう書いてあった。

 

 

"加害者学生らによる猥褻画像・動画等の強要のためか。"

 

 

 顳顬の内でなにかが爆発した。目の前が真っ赤になった。つま先から脳天にかけて血液ーー身体に巡る全身の血液ーーが暴走機関車の如く循環する。泡立ち、破裂し、駆け巡り、流動する、泡立ち、破裂し、駆け巡り、流動する。振り上げる、降り下ろす、唸る。振り上げる、振り下ろす、唸る。反復がこの時僕を支配していた。

 手が痛かった。そして、視界は吹き上がる塵埃と木片で満ちていた。覚えのない痛みを覚え始めてからすぐだったか、インターホンの音が聞こえてきた。すさまじい反復だった。立て続けにインターホンが鳴った。とても邪魔だった。故に無視した。無視し続けた。こちらがあまりに応答しないからか、仕舞いに玄関のドアを殴打する音も聞こえてきた。あまりにも耳障りだった。でもなぜだろう、鉄の扉を拳で強打する音と、この部屋で発生している音とが不思議と共鳴している気がした。

 気づいたら僕は跪く形で床に突っ伏していた。床には夥しい木屑が散らばっており、そこには少しの赤が刺していたような気がした。視界がぼやけて、目の前の様子が濁る。判然としない意識の中、微睡むようにして僕は眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 頭の中の錆び切った歯車らが次々と秩序立って、軋みながらも動き出した。目覚めると、部屋の中がひどい有様になっていた。机には歪な穴が開いていた。

 

 

 

 

 

 今年8月、都内某所にてとあるアイドル系人気男性声優が自殺を図ったが、未遂に終わった。彼は直近に、人気歌手の女性と結婚していたのだが、その直後に自身のファンと不倫関係にあったという報道がなされたのだ。ファンとホテルに入るところ、ホテル内で行動を共にしている写真を記者に激写され、それが世に報じられたのだ。彼は数え切れないほどの大バッシングを受け、精神的苦痛に苛まれたがために、自殺を図ったのではないか、と巷では推察されている。元々、彼には根強い女性ファンが多くいたというのもあり、彼が結婚を発表した際には喜びや幸せを送る声だけでなく、怨嗟の声も当然多くあった。

彼がもし死んでいたら、また匿名の陰に隠れて見えない場所から攻撃をしてしまったSNSユーザーの皆が非難の的となるだろう。

いや、そもそも、死んでいなくても現在進行形で非難の矛先は彼らに向いている。

彼が自殺を図ろうとした理由は彼本人にしかわからないことだが、このsns上における誹謗中傷も数ある原因のうちの一つだろう。

しかし、そうとは言っても今回の件は彼のファンを裏切る形となり、事態はおさまることを知らない。

 

閉鎖的な環境で理不尽にも暴虐の限りを尽くされた1人の少女の自死が、事件とは無関係な第三者である私でさえ、張り裂けそうなほど胸を苦しめ、どうしようもない怒りや憎しみを湧き立たせる。

だけど、不貞を働き表舞台から地底へ引き摺り下ろされたあげく、社会的制裁を否応なく加えられ、自殺を試みた人間に対しては、私は平然としていられる。寧ろ、彼の取った行動に対して「逃げだ」とか「無責任だ」なんていう、病床にある人間には到底向けるべきでない想いも湧いてきたりする。

もし彼が死んでしまっても、私であれば同じような感情を持つことになっていただろう。せいぜい「皆やりすぎだ」という風に流し、あくまで他人事だとしか思わなかったに違いない。

誹謗中傷議論において「たとえ悪い事をしてしまったとしても、その人を死に追いやるほどの誹謗中傷が許されるはずがない」というようなセリフをよく耳にする。人が人を言葉で傷つける際、善意が関与しない時とする時がある。タチが悪いのは圧倒的に後者だ。再考すれば自分が間違っているということに容易に気づく事ができるのが前者。後者はそうはいかない。悪い事をした、つまり悪い奴だ。それを咎めて何が悪い。単純明快な理論ほど脳に、心にへばりつき、離れづらい。けど、これは極端な話。今回の件は当たり前だが死に追いやるほど追い詰めて良い訳なんてない、だけれど咎めなければならないことでもあるのだ。

あまりにも無責任で、暴力的とも捉えられかねないことをつらつらと綴ってきているが、これが真実なんだ。

抗う力がどれほど強くても、本流の勢いには打ち消される。しかしその流れに多少の濁りを残していける。次第にそれが濁流となり、水域を広げ、世界を呑み込む。

彼を追い詰めたのは不特定多数の人間でもあるが、大前提彼自身でもあるのだ。

 

 

齢14という前途洋々でこれから全てが始まると言っても良いほどの若さで、自らの命を捨てる勇気があった少女。

己の未熟さ故に犯してしまった醜く、汚いあやまちを自身の命で償おうとしたが、未遂に終わってしまった男。

違いは歴然だ。

彼女は死んだ。不条理にも痛めつけられ、想像だにしない恐怖と苦痛に曝されたからだ。可哀想だ。そんな月並みな言葉しか頭の中を反芻しない。

彼は生きた。然るべき厳罰を受けたからなのか。それとも、勇気がなかったからなのか。どちらにせよ、彼は生きた。だから彼に対する労りの言葉や慈悲の念は存在しない。いや、これは結果だけの話だ。理由はこれだけじゃない。契りを交わしたのにも関わらず、それを蔑ろにするようなあやまちを犯してしまったからだ。

「日本では不倫というのは一種の文化だ」なんていう妄言を語ったりする人間がいる。確かに、不倫という言葉に関して、私たち日本人にはあまりにも聞き馴染みがある。たかが不倫、所詮不倫、自身が当事者じゃない場合、不倫に対してこの程度の軽々しさを持ち合わせてる人は少なくないだろう。けれど、脚光を浴びている人間、著名人、有名人が不倫をはたらいてしまった場合、その軽々しさは天地がひっくり返されてしまったかのように重々しくなる。

本来課せられるはずの罰が、有名人という冠を被ってしまっているせいで重罰化してしまうという現象が起こる。それがSNS上での誹謗中傷という形になって現れているのだろう。

 

彼らはキャラクターなのだ。己自身がブランドなのだ。表舞台に立つ人間はそういう生き方をしているのだ。品性や人格を他のどんな人間よりも気にしなければいけない人種なんだ。死ぬまで仮面を被り続けなければいけない。だから、彼らが時折り見せる仮面の下の顔は形容し難い禍々しさを纏っているのだろう。

 

 

感情を乗せたレールの向きを変えるかどうかの判断を下すのに最も重要な要素とは"結果"だけでなく"過程"も含まれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨今のオタクと心象の上でのオタク

 

 

 

       オタクはキモい

 

この事実が今日では薄れつつあると私は思う。

キモいというのは「気持ち悪い」という言葉の略語である。つまり不快感を覚えたり見苦しさを感じたりする意味というのが私の認識なのだが、これが間違っていなければ、今回表題に挙げた文言はやはり正しいということになるだろう。

 

キモいと感じる際に、人の心の内で起こっている主な現象として

"普通、一般、常識との乖離"が挙げられるだろう。

 

そう。昨今のオタクに対する認識は"異端、特殊、非常識"ではなく、普通、一般、常識になりつつあるのだ。いやもうなったと言ってもいいのかもしれない。

オタク文化は、事例を挙げる必要もないくらいに世間一般に浸透している文化になったのだ。

 

つまり、オタクは気持ち悪くない

というのが今日でのオタクに対する認識なのだ。

 

もちろん、このようなイメージを抱いていない人も多くいるだろう。しかし、少なからず風向きは変わりつつあるというのもまた事実なのである。

 

最後に、一見この短い記事は、私がオタクを差別するような、またオタクを侮蔑するような印象を読者に与えているように見えるが、それは全くの見当違いであることを留意してもらいたい。

その件については、当該記事とは扱う領域が異なるので、機会があれば筆を執ろうかと思う。

 

 

いくつもの刃が胸を刺す

信じることは尊いこと。裏切ることは下卑たこと。そう考えてきた、いや今でもそう思っている。裏切られた、傷つけられた、そんなところも含めてその人なんだと受け入れられる様な人間だと思っていた。でも、現実は違う。いっときの感情で"一生"とか"絶対"とか"何があっても"なんていう言葉を平気で使う。その時は本当に思っていたからだとか、そんな事を言い訳に気持ちを蔑ろにされる。

 

本気であることが美しいとか、その時はその時、今は今みたいな、思考を放棄して感情という彼らにとっての絶対善を理屈に築かれてしまったその偽りの純真を砕いてしまいたい。それを砕けば全てうまくいくからか。いや、それを砕けば全てが消えて無くなるからだ。

 

何もかもが夜テレビの放送がなくなった後のザーザーというノイズのような音が脳裏に残存している。全身を言葉が駆け巡っていく感覚とは程遠いなにか。雑音が脳を反芻し、頭蓋骨にぶつかっては頭蓋骨にぶつかり共鳴し、増強されていく感覚。

 

 

人を想う気持ちを、人を傷つける気持ちを、僕は大切に、そして雑に持ち続けなければならない。

 

 

口は虚を食む

家にいても何かしらに悪意をぶつけたり、外に出ても視界に入るもの全てを憎んだりすることってよくありますよね。それはsnsでも共通して言える。

 

特に何か社会的、世間的に特別な日や行事が近づくにつれ、その話題について嘆かわしい文句を呟いてたりする人達を見ると悲しいなぁって思ってしまいます。例えば、クリスマスに予定がない、寂しいとかほざいてるあいつら。恋人や友人との予定があるくせに、理由もなく嘘をつく人間のふりをした狐共。仮に、本当にクリスマスに予定がなかったとしよう。しかしそれをつぶやくワケって一体なんだろうか。刹那的とはいえクリぼっちという響きを体感したいだけなのだろうか。1番あり得そうなのは、クリぼっちを明言化することにより、遊びの誘いを促しているというところだろうか。

 

ここであえて、私が明文化しておこう。世間では誰かと盛り上がり、やって来るのを楽しみとされるような日を本当に1人で過ごす人間はそんなことを呟かない。ソースは俺。と、締めくくりたい所だが、根拠薄弱にも程があるので一応ある程度客観性に適ったものを提示しておく。クリスマスやバレンタインデーといった世の中の人々、特に若者の多くがどんちゃん騒ぎをするような記念日を1人で過ごす人間は、誰かと過ごす人達に嫉妬し、ルサンチマンを抱いているから、だからこそ彼らを嫌らったりとかはむしろしなくて、シンプルにそういう"ノリ"について行けないから触れないし、触れたくないだけ。

 

ところで、話を戻すが

そんなノリについていけないとはいえ、社会的な意味で人付き合いをしていかないといけない場に、無理やり引き摺り込まれるような状況にいたとしたら話は別である。例えば仕事先などの付き合いのことである。その場合、心の底そのノリを拒絶していることに気づいていながらも、無理矢理乗らざるをえない。この精神的苦痛は比類ないもので、私みたいな捻くれ者にはどんな苦痛よりも耐え難いことなのだ。だから、もしこれを読んでいるそこそこ社会的集団的地位の高い人は、私のような人間がいたら途中退室してもいいということだけでもいいので、どうか察して、優しくすこやかに伝えてください。

 

やっぱり一般的な考えからみて、少しズレてるよなぁって思ってしまう価値観を信奉している人ってどうにも人付き合いが上手くいかないんですよね。でも大人だったら、自分がこう思っていようが周りに合わせたりとか上司の言うことを聞くことができる柔軟性がありますよね。これは生まれながらある才能なんですよ。きっと。そして、その能力が欠落している人間も社会に適応しなければならない時が必ず訪れます。故に、自分以外の人間と調和しようとする姿勢を持つよう試みた経験が少なからずあるんですよ。でも失敗して今に至る。余計にこんがらがって、上手くいかないんですよね。協調性を持ちたいのだけれど持てない。こんな世の中でこんなアンビバレンスを抱えて生きていかなきゃいけないって正直無理っすよ。 

なんて言ってますが、みんな優しいんでなんとかなってるってのもありますよね。相手を傷つけないように細心の注意を払って気を遣う。それにたとえ、嘘が混じっていたとしても、自分を傷つけないためという体裁がそこにあったとしても、相手を傷つけない選択を取る。素晴らしいと思います。でも私は嫌いです。殺して欲しくなりますよ。どんなに哀れなんだ私って。

 

中高生ド痛オタク共がバイブルにするほど御用達のとあるラノベ作品でこんなセリフがあります。

 

"真実が残酷だというのなら、嘘はきっと優しいのだろう" 

 

結局嘘ってのは真実の裏返しなんで、嘘をつかれてそれに気づけば真実がいとも容易く分かってしまうんですよ。それに、捻くれ者であればあるほど他人が嘘をついてることなんてノックスの十戒には反しますが、第六感的なもので分かってしまうんですよ。なんというか空気とか表情とか言葉遣いとかでピンとくるんです。

 

優しさで生まれた嘘ほど、真実を物語るものはないんです。だから、よしんばそれが相手のことを思っての気遣いだとしても、残酷な真実を伝えられるよりも遥かに心の底を抉ってくる、とても鋭利なものになるんですよね。

 

じゃあどうすればいいの?本当のことを言って傷つけてしまっていいの? まぁ、一般的に考えると答えはNOでしょう。けれど、僕は傷つけてしまってもいいから本当のこと言えって言いたいですね。

 

理不尽なんて言わせねえぞ。つくならもっとうまく嘘つけって話なんで。虚飾まみれのハッピー物語でもそれが嘘であると分からない限り、読み手は幸せな気持ちで終われる。

 

 

 

 

 

      君たちは何歳までサンタクロースを信じていましたか?