忘れないで

厭世的なぶろぐ

口は虚を食む

家にいても何かしらに悪意をぶつけたり、外に出ても視界に入るもの全てを憎んだりすることってよくありますよね。それはsnsでも共通して言える。

 

特に何か社会的、世間的に特別な日や行事が近づくにつれ、その話題について嘆かわしい文句を呟いてたりする人達を見ると悲しいなぁって思ってしまいます。例えば、クリスマスに予定がない、寂しいとかほざいてるあいつら。恋人や友人との予定があるくせに、理由もなく嘘をつく人間のふりをした狐共。仮に、本当にクリスマスに予定がなかったとしよう。しかしそれをつぶやくワケって一体なんだろうか。刹那的とはいえクリぼっちという響きを体感したいだけなのだろうか。1番あり得そうなのは、クリぼっちを明言化することにより、遊びの誘いを促しているというところだろうか。

 

ここであえて、私が明文化しておこう。世間では誰かと盛り上がり、やって来るのを楽しみとされるような日を本当に1人で過ごす人間はそんなことを呟かない。ソースは俺。と、締めくくりたい所だが、根拠薄弱にも程があるので一応ある程度客観性に適ったものを提示しておく。クリスマスやバレンタインデーといった世の中の人々、特に若者の多くがどんちゃん騒ぎをするような記念日を1人で過ごす人間は、誰かと過ごす人達に嫉妬し、ルサンチマンを抱いているから、だからこそ彼らを嫌らったりとかはむしろしなくて、シンプルにそういう"ノリ"について行けないから触れないし、触れたくないだけ。

 

ところで、話を戻すが

そんなノリについていけないとはいえ、社会的な意味で人付き合いをしていかないといけない場に、無理やり引き摺り込まれるような状況にいたとしたら話は別である。例えば仕事先などの付き合いのことである。その場合、心の底そのノリを拒絶していることに気づいていながらも、無理矢理乗らざるをえない。この精神的苦痛は比類ないもので、私みたいな捻くれ者にはどんな苦痛よりも耐え難いことなのだ。だから、もしこれを読んでいるそこそこ社会的集団的地位の高い人は、私のような人間がいたら途中退室してもいいということだけでもいいので、どうか察して、優しくすこやかに伝えてください。

 

やっぱり一般的な考えからみて、少しズレてるよなぁって思ってしまう価値観を信奉している人ってどうにも人付き合いが上手くいかないんですよね。でも大人だったら、自分がこう思っていようが周りに合わせたりとか上司の言うことを聞くことができる柔軟性がありますよね。これは生まれながらある才能なんですよ。きっと。そして、その能力が欠落している人間も社会に適応しなければならない時が必ず訪れます。故に、自分以外の人間と調和しようとする姿勢を持つよう試みた経験が少なからずあるんですよ。でも失敗して今に至る。余計にこんがらがって、上手くいかないんですよね。協調性を持ちたいのだけれど持てない。こんな世の中でこんなアンビバレンスを抱えて生きていかなきゃいけないって正直無理っすよ。 

なんて言ってますが、みんな優しいんでなんとかなってるってのもありますよね。相手を傷つけないように細心の注意を払って気を遣う。それにたとえ、嘘が混じっていたとしても、自分を傷つけないためという体裁がそこにあったとしても、相手を傷つけない選択を取る。素晴らしいと思います。でも私は嫌いです。殺して欲しくなりますよ。どんなに哀れなんだ私って。

 

中高生ド痛オタク共がバイブルにするほど御用達のとあるラノベ作品でこんなセリフがあります。

 

"真実が残酷だというのなら、嘘はきっと優しいのだろう" 

 

結局嘘ってのは真実の裏返しなんで、嘘をつかれてそれに気づけば真実がいとも容易く分かってしまうんですよ。それに、捻くれ者であればあるほど他人が嘘をついてることなんてノックスの十戒には反しますが、第六感的なもので分かってしまうんですよ。なんというか空気とか表情とか言葉遣いとかでピンとくるんです。

 

優しさで生まれた嘘ほど、真実を物語るものはないんです。だから、よしんばそれが相手のことを思っての気遣いだとしても、残酷な真実を伝えられるよりも遥かに心の底を抉ってくる、とても鋭利なものになるんですよね。

 

じゃあどうすればいいの?本当のことを言って傷つけてしまっていいの? まぁ、一般的に考えると答えはNOでしょう。けれど、僕は傷つけてしまってもいいから本当のこと言えって言いたいですね。

 

理不尽なんて言わせねえぞ。つくならもっとうまく嘘つけって話なんで。虚飾まみれのハッピー物語でもそれが嘘であると分からない限り、読み手は幸せな気持ちで終われる。

 

 

 

 

 

      君たちは何歳までサンタクロースを信じていましたか?