忘れないで

厭世的なぶろぐ

親和というディスコード

 "厳しいけど優しい"とか、"嫌いだけど好き"みたいな、互いが正反対の性質を孕んでいる二つの概念が同時に成立しているような文言。とても嫌いだ。曖昧で、捉えどころのない、読み手にただモヤモヤ感だけを残す表現でしかない。けれど、醜さの美なんていう言葉にはどうも腑に落ち、傾倒し、執着してしまう。ホラー映画やホラー小説なんかを怖い怖いと言いつつも見入ってしまうのは、この原理からくるものかもしれない。両極の性質を含んでいるものに良くも悪くも惹きつけられるのは、どうしてだろうか。その答えはもしかしたら、私達にとって非常に身近な所に存在するのではないのか。

 

 境遇が似ていて、価値観が似ていて、趣味嗜好も似ている。人は、互いの共通項の数が多ければ多いほど同調して行く。ただお互いが"似ている"というだけで、関係の基盤を構築するのだ。

もちろん、他者との関わり合いにおいて、良好な関係を築くのに必要な要素として、両者の共通点は代表的な要素と言える。平たく言えば、仲良くするための都合の良い"とっかかり"のようなものという感じだろう。

 しかし、これは不和を前提にして初めて成立する関係なんだ。類似性が高いという理由だけで形成された土台は、友好関係を素早く築くことはできる。けれど、それはトランプカードで作った城のように、ひどく脆く、危うい。手が触れるだけで、或いはほんの些細なことで崩れてしまう。それは硝子なんだ。硝子はほんの少し、罅が入るだけでダメになってしまう。少しの罅は、時間を経るうちに、幾何学的に亀裂が進行する。やがてそれは根に到達し、煌びやかではあるが、目に見えないほど小さい粒子があたりに散布し、修復不可能になる。だから、この関係づくりの手法は"強者の処世術"と言っても過言ではない。袂を分てばそれまでだという風に、割り切れる頑健な精神を持っている人間にしか到底行えないのだ。普通、親しくなったからには、できるだけ長くその結びを保っていたいと思うのが自然だ。起こるべくして起こる崩壊を甘受できるには、死を受け入れるのと同じぐらいに達観していなければならない。

幸福である時、須く人は幸福であるとされる。しかし、幸福は悲哀に満ちた瞬間であるのもまた事実だ。幸福を感じる度に、私は恐ろしくなる。果てのない悲哀が眼前にあるからだ。いつ、どこで罅が入るのかに怯えながら幸せを享受することは、もはや幸せを体感しているとは言えないだろう。朝、目が覚めた時、あと何度同じ光景を見ることができるのだろう。夜、瞼を閉じる時、あと何度同じ想いを巡らせることができるのだろう。変わらない日常が不条理にも破壊されることを私は知っている。

 幸せから目を背け、平和を恐怖し、日常に執着する人間を人は臆病者といい、憐れむ。

 

 

ここまできて書いてきて、自分の文章を読み返しているのだが、なぜこれほど稚拙で抽象的な言説が多いのだろうか。つくづく自分の文才の無さに絶望する。戦後、新戯作派は閉口することしかできない状況だったのに、瓦礫の山から可能性求めて言葉を手繰り寄せたとされている。そんな彼らの姿勢に、言葉に、私のような無学無思想な人間が傲慢にも尊いものを感じてしまう反面、やはり羞恥の念が身体中を駆け巡っている。それは遅効性の毒のように徐々に体を蝕み、破滅の一途を辿らせる。瞬間的な恐怖よりも、じわじわと迫り来る恐怖の方が精神的にまいるというのは今ではよく理解できる。