忘れないで

厭世的なぶろぐ

おぞましくも普遍する濁流の中で

"2021年3月、北海道旭川市のとある公園にて、女子中学生の遺体が凍った状態で発見された。現場の状況から事件性はないとされる。"

 

そんな記事を読み、僕は無機的に携帯の画面を下へスクロールした。そして、そこにはおよそつぎのようなことが書かれてあった。

 

"当該女子中学生は学校内で複数人からの凄惨ないじめを受けていたらしく、ここに今回の事件との原因を見ることができるかもしれない。"

 

 

筋肉が硬った。机に半身を出して、さらに画面をスクロールした。そこにはこう書いてあった。

 

 

"加害者学生らによる猥褻画像・動画等の強要のためか。"

 

 

 顳顬の内でなにかが爆発した。目の前が真っ赤になった。つま先から脳天にかけて血液ーー身体に巡る全身の血液ーーが暴走機関車の如く循環する。泡立ち、破裂し、駆け巡り、流動する、泡立ち、破裂し、駆け巡り、流動する。振り上げる、降り下ろす、唸る。振り上げる、振り下ろす、唸る。反復がこの時僕を支配していた。

 手が痛かった。そして、視界は吹き上がる塵埃と木片で満ちていた。覚えのない痛みを覚え始めてからすぐだったか、インターホンの音が聞こえてきた。すさまじい反復だった。立て続けにインターホンが鳴った。とても邪魔だった。故に無視した。無視し続けた。こちらがあまりに応答しないからか、仕舞いに玄関のドアを殴打する音も聞こえてきた。あまりにも耳障りだった。でもなぜだろう、鉄の扉を拳で強打する音と、この部屋で発生している音とが不思議と共鳴している気がした。

 気づいたら僕は跪く形で床に突っ伏していた。床には夥しい木屑が散らばっており、そこには少しの赤が刺していたような気がした。視界がぼやけて、目の前の様子が濁る。判然としない意識の中、微睡むようにして僕は眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 頭の中の錆び切った歯車らが次々と秩序立って、軋みながらも動き出した。目覚めると、部屋の中がひどい有様になっていた。机には歪な穴が開いていた。

 

 

 

 

 

 今年8月、都内某所にてとあるアイドル系人気男性声優が自殺を図ったが、未遂に終わった。彼は直近に、人気歌手の女性と結婚していたのだが、その直後に自身のファンと不倫関係にあったという報道がなされたのだ。ファンとホテルに入るところ、ホテル内で行動を共にしている写真を記者に激写され、それが世に報じられたのだ。彼は数え切れないほどの大バッシングを受け、精神的苦痛に苛まれたがために、自殺を図ったのではないか、と巷では推察されている。元々、彼には根強い女性ファンが多くいたというのもあり、彼が結婚を発表した際には喜びや幸せを送る声だけでなく、怨嗟の声も当然多くあった。

彼がもし死んでいたら、また匿名の陰に隠れて見えない場所から攻撃をしてしまったSNSユーザーの皆が非難の的となるだろう。

いや、そもそも、死んでいなくても現在進行形で非難の矛先は彼らに向いている。

彼が自殺を図ろうとした理由は彼本人にしかわからないことだが、このsns上における誹謗中傷も数ある原因のうちの一つだろう。

しかし、そうとは言っても今回の件は彼のファンを裏切る形となり、事態はおさまることを知らない。

 

閉鎖的な環境で理不尽にも暴虐の限りを尽くされた1人の少女の自死が、事件とは無関係な第三者である私でさえ、張り裂けそうなほど胸を苦しめ、どうしようもない怒りや憎しみを湧き立たせる。

だけど、不貞を働き表舞台から地底へ引き摺り下ろされたあげく、社会的制裁を否応なく加えられ、自殺を試みた人間に対しては、私は平然としていられる。寧ろ、彼の取った行動に対して「逃げだ」とか「無責任だ」なんていう、病床にある人間には到底向けるべきでない想いも湧いてきたりする。

もし彼が死んでしまっても、私であれば同じような感情を持つことになっていただろう。せいぜい「皆やりすぎだ」という風に流し、あくまで他人事だとしか思わなかったに違いない。

誹謗中傷議論において「たとえ悪い事をしてしまったとしても、その人を死に追いやるほどの誹謗中傷が許されるはずがない」というようなセリフをよく耳にする。人が人を言葉で傷つける際、善意が関与しない時とする時がある。タチが悪いのは圧倒的に後者だ。再考すれば自分が間違っているということに容易に気づく事ができるのが前者。後者はそうはいかない。悪い事をした、つまり悪い奴だ。それを咎めて何が悪い。単純明快な理論ほど脳に、心にへばりつき、離れづらい。けど、これは極端な話。今回の件は当たり前だが死に追いやるほど追い詰めて良い訳なんてない、だけれど咎めなければならないことでもあるのだ。

あまりにも無責任で、暴力的とも捉えられかねないことをつらつらと綴ってきているが、これが真実なんだ。

抗う力がどれほど強くても、本流の勢いには打ち消される。しかしその流れに多少の濁りを残していける。次第にそれが濁流となり、水域を広げ、世界を呑み込む。

彼を追い詰めたのは不特定多数の人間でもあるが、大前提彼自身でもあるのだ。

 

 

齢14という前途洋々でこれから全てが始まると言っても良いほどの若さで、自らの命を捨てる勇気があった少女。

己の未熟さ故に犯してしまった醜く、汚いあやまちを自身の命で償おうとしたが、未遂に終わってしまった男。

違いは歴然だ。

彼女は死んだ。不条理にも痛めつけられ、想像だにしない恐怖と苦痛に曝されたからだ。可哀想だ。そんな月並みな言葉しか頭の中を反芻しない。

彼は生きた。然るべき厳罰を受けたからなのか。それとも、勇気がなかったからなのか。どちらにせよ、彼は生きた。だから彼に対する労りの言葉や慈悲の念は存在しない。いや、これは結果だけの話だ。理由はこれだけじゃない。契りを交わしたのにも関わらず、それを蔑ろにするようなあやまちを犯してしまったからだ。

「日本では不倫というのは一種の文化だ」なんていう妄言を語ったりする人間がいる。確かに、不倫という言葉に関して、私たち日本人にはあまりにも聞き馴染みがある。たかが不倫、所詮不倫、自身が当事者じゃない場合、不倫に対してこの程度の軽々しさを持ち合わせてる人は少なくないだろう。けれど、脚光を浴びている人間、著名人、有名人が不倫をはたらいてしまった場合、その軽々しさは天地がひっくり返されてしまったかのように重々しくなる。

本来課せられるはずの罰が、有名人という冠を被ってしまっているせいで重罰化してしまうという現象が起こる。それがSNS上での誹謗中傷という形になって現れているのだろう。

 

彼らはキャラクターなのだ。己自身がブランドなのだ。表舞台に立つ人間はそういう生き方をしているのだ。品性や人格を他のどんな人間よりも気にしなければいけない人種なんだ。死ぬまで仮面を被り続けなければいけない。だから、彼らが時折り見せる仮面の下の顔は形容し難い禍々しさを纏っているのだろう。

 

 

感情を乗せたレールの向きを変えるかどうかの判断を下すのに最も重要な要素とは"結果"だけでなく"過程"も含まれている。